葛西城は東京都葛飾区に築かれた中世の城郭である。
遺構は存在しないが、かつて上杉・北条・徳川ら戦国大名による争奪戦が繰り広げられた関東の重要拠点であった。
葛西城は“享徳の乱”の際に扇谷上杉氏によって築かれた城郭。
しかし築城者や時期には謎が多く、
小田原北条氏が下総国の有力大名里見氏との決戦に備え築いたとする説や、名門・豊島氏の血筋を引く奥羽の大名葛西氏が鎌倉時代に築いたとする説もある。(※当サイトでは扇谷上杉氏説を採用しています)

西に矢切の渡し・南に古代東海道・城域に鎌倉街道下道を取り込んだ葛飾区青戸は、交通・軍事上の要衝であり、城を築くのには絶好の地だった。
さらに、東に隣接する中川の自然堤防によって敵を寄せ付けない地形のため、15世紀には扇谷上杉氏の代官菊池氏がこの地を統治し、政所が設けられたという。
葛西城のある小山では、銭拾い伝説で知られている青砥藤綱の城館跡との伝承もあり、「青砥藤綱城跡」と刻まれた碑が建碑されている。
築城について
1524年、勢力を急拡大していた小田原北条氏が武蔵へ軍を向けた。
北条氏綱は扇谷上杉氏の支城攻略に動き出し、江戸城を落として葛西へ迫った。
この時、扇谷上杉氏家臣・三戸義宣が越後の長尾氏に援軍を求める書状の中で、
「万一彼地無曲候者当国滅亡不可有程候」と、「万一葛西が落ちた時は国が滅亡する」としている。当時の葛西城の重要性が伝わる一節であり、葛西城に国家の存亡がかかっていたことがわかる。
その後、扇谷上杉氏は葛西城を守りきり、虎口を脱した。
しかし12年後の1537年、事態は急展開する。北条氏は再び扇谷上杉氏へ軍を挙げ、本拠地川越城を落としたのであった。翌年には葛西城も北条氏の手に落ちた。
それ以降、北条氏による支配が始まり、江戸城代・遠山綱景が配備された。
戦国時代の葛西城
葛西城は一昔前まで「小規模な砦」「北条氏の臨時築城」などと評価されてきたが、数度にわたる発掘調査によって全貌が明らかになると、大規模な中世城郭であることが判明した。
今では都指定史跡として本丸跡の一部を葛西城址公園として整備されている。
葛西城の現状